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KenConsultingの本多謙が政治/経済記事を独自の視点で評論します

「『知性の断片化』の危機回避を」について

「『知性の断片化』の危機回避を」というコラムを猪木武徳(いのき・たけのり)氏が日経新聞の経済教室欄に2019年1月4日付で載せている。

このコラムは「経済教室」の「平成の終わりに」シリーズの第1弾なので猪木氏は平成元年(1989年)のマルタ会談以来30年間の日本経済が「世界の相場と比べて不思議な動きを示してきた」ことを挙げている。その特徴は①人口が、02年から17年マイナスの変化率であること、②実質GDPが02~17年の15年間で15%しか成長していないこと、③消費者物価指数が02年から17年の15年間で3%しか上昇しなかった点であり、これらは主要国と比較して「特異なパフォーマンスを示して」いることを挙げている。
そしてこの「不思議な現象を経済学が十分に」は説明できていないのだから、これらを説明するには「日本国民の精神の内的状況に立ち入って見る必要があ」り、又「歴史的な視点からも日本経済の現状を把握する必要がある。」何故なら「経済活動の基本をなす生産も消費も基本的には企業や家計の予想と心理で動く」からだと述べている。

平成人工等の統計

続いて猪木氏はデモクラシーと急速な技術革新が社会に住む人間の行動様式をどの様に変えて来たかを述べ、最後に「デモクラシーと技術革新が生み出した心の空隙を何で満たすのか、多数の支配の味気なさや不安定性をいかに避けるのか、こう問い直すことがいま求められている。」とコラムを閉じている。筆者の読後感は「ちょっと違うんじゃないか?」だ。それを説明しよう。

先ず、猪木氏はこのコラムで平成の30年の結果起こった3つの問題点を挙げたが、①は平成の30年間、②と③は後半の15年間の現象だ。平成30年の中間で社会を最も大きく変えたのはインターネット革命の結果で、②と③はその結果だ。インターネットは日本に1995年ころ紹介され、2000年から日本社会に浸透し出し、日本人の行動様式を大きく変えた。NTTドコモのi-modeサービスが発表されたのは1999年だ。猪木氏はこの事実に気が付いていただろうか?

次に、猪木氏は日本の社会科学系のインテリらしく、「歴史的な視点」として18世紀後半からの西欧の民主主義と科学技術がもたらすものを説明し、それに対する解決策としてアップルのS.ジョブスが実現した「フェース・ツー・フェースの出会いを目的とした」職場空間を紹介している。「裸の利己主義」なんて“greedy”を肯定する西洋のもので、日本は本来「思いやり」の文化じゃなかったのかと思うし、「出会いを目的とした」職場環境がS.ジョブスの功績なら日本企業の大部屋式オフィスや本多技研の「わいがや」主義はどうなんだ、と突っ込みを入れたくなる。日本の文系学者は西洋の学術成果を日本に当て嵌めようとして失敗する傾向があるし、科学技術を観念でしか理解しないので判断を誤まる。

猪木氏は民主主義と科学技術が「人々をバラバラにして社会の連携を弱める」と批判しているが、民主主義を機能させるためには多くの階層で議論や利益の調整が必要であり、多数決で決まった事には全員が従うことが原則だから、民主主義が「人々をバラバラにして社会の連携を弱める」というのは当たらない。むしろ、人々を階級間の闘争という一つの理論だけで理解しようとする態度が問題なのではないか?それに、西欧型民主主義は明治政府が西欧列強に対抗する為に便宜的に日本に導入した制度であって、日本に本格的に定着したのは大東亜戦争以降の70年間に過ぎない、民主主義をもって日本人の文化(行動の性向)を説明するのは無理がある。科学技術の発達にしても、それはそもそも人間を肉体的労働の苦痛から解放し、より人間的な生活を人々に与えようとするものだったはずだ。左翼思想家はそれを資本家が労働者を搾取する手段と言うだろうが。

猪木氏は「日本では地域社会という身近なところから、自分たちで物事を決めていくという精神は十分成熟しているのだろうか。」と述べ、日本を西洋より遅れていると貶しているが、では、例えば、江戸百万の住民を管理した警官に相当する公務員がたった50人だったという事実をどう説明するのだろうか?これは町内ごとの自治が機能していた証拠であって、自分たちで物事を決めていくという精神は十分に成熟していたと言えないだろうか?幕藩体制下の各藩が半独立国だったことを猪木氏は知らないのだろうか?

生活全般が「宴会型」から「独酌型」へと変わってしまったという指摘にも注釈が必要だ。この変化は過去10数年程度のもので、平成の30年間のものではないし、それはi-modeが普及した後のインターネット時代のものだ。自室に籠ってパソコンやスマホを一人いじっている者の姿は「独酌型」に見えるかもしれないが、その者はSNSでネットの向こうの誰かと情報を交換していたりゲームしていたりするのだ。ネットで起こる「炎上」は「独酌型」では発生し得ない。「高層マンションに住めば『向こう三軒両隣』という親近感は生まれにくい」のも高層マンションが普及したここ10年程度の傾向で、なお且つマンションには管理組合の設置が義務付けられていて、マンション住人は緩い形だが近所付き合いをしなければならない。

猪木氏は論を纏めるにあたって「改めて強く意識すべきは、科学や技術という個別の分野での革新と進歩が、全体としての人類の進歩を必ずしも意味しないということだ。ジグソーパズルの一部を精緻に仕上げても、全体がいかなる絵柄になるのか知ろうとしない限り、われわれは真に進歩したとは言い難い。一つの時代がその前の時代より進歩しているという19世紀的な進歩史観の呪縛から、われわれは自由にならなければならない。先に指摘した日本経済の不思議な現象を経済学が十分に説明できないという問題も、こうした『知性の断片化』と無関係ではなかろう。」と書いている。これについてコメントしたい。

明治以来日本の学者は西欧の学問を学び、それを西洋の知性を日本に当て嵌めようとして来た。日本は西欧とは異なる歴史と形而上学を持つから当然はみ出す部分が出る。先に指摘した「日本経済の不思議な現象を経済学が十分に説明できないという問題」はこの様なはみ出し部分があるということなのだ。そして猪木氏はその故にそれを説明できていない。「知性の断片化」もマックス・ウエーバー以来のそうした言葉だ。“西欧の”「19世紀的な進歩史観の呪縛から」「自由にならなければならない」のは猪木氏のような日本のインテリだ。

日本の産業は西欧の先進技術を消化して自己のものにし、それを利用した産業を創ることに追われてきた。IT産業においては特にそうだ。新技術が次から次に欧米に持ち込まれ、それに個別に対応して全体像を見失った姿を猪木氏は「ジグソーパズルの一部を精緻に仕上げても、全体がいかなる絵柄になるのか知ろうとしない限り、われわれは真に進歩したとは言い難い。」と述べているが、筆者としては「全体をどの様な絵柄にするかのビジョンを自ら作って世界に対してイニシアティブを発揮しない限り、われわれはいつまで経っても追随者のままだ。」と言い換えたい。例えばIBMが未来の社会と自社のビジネスとの関係をどこまで精緻に広範に描いているか知っている日本人はいるだろうか?

最後に、猪木氏が挙げた3つのポイントについてコメントしたい。
1. 平成日本の停滞の背景に日本社会の気質;背景にあるのは「日本人の気質」ではなくて「世界の覇権を守ろうとする米国の対日政策」だろう。ちなみに、中曽根康弘総理の誕生が1982年でプラザ合意が1985年だ。
2. 民主政治と技術革新は社会の連携を弱める;筆者は替りに「リベラリズムの罪」を挙げたい。リベラリズムは失敗した共産主義、社会主義が変態したもの。人の社会を個人とその機能に分解し無機的な社会を作ろうとする。その為産む性としての女性の負担が極端に増え、出生率が低下した。
3. 地方自治や対面の付き合いが重要な役割;インターネットを通じて時間、距離の制限を超えて人々が付き合っているのを猪木氏は理解していないに違いない。地方自治体はIT化を加速し業務処理効率を更に上げるべきだ。
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