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KenConsultingの本多謙が政治/経済記事を独自の視点で評論します

国語教育の在り方について

「それってあまりに文学的では」という題でコラムニスト小田島隆氏が2018.11.12の日経ビジネスで、文科省が高校の国語教育を「文学国語」と「論理国語」に分けることに対する憂慮を述べている。文科省は高校1年の「総合国語」を大幅に減らし、高2、高3では「論理国語」か「文学国語」のどちらかしか選択できないようにするので、殆どの生徒は「論理国語」を選択するだろうから、生徒の「論理だけでは説明のつくものではない」「人間の行動」に対する理解力が衰えるだろうから、文学者達が「文学的な」不安で反対する通り「この改訂は破滅的な結果を招来する」だろう、ということだ。だが小田島氏は他方でこの文学者達の不安に対する感想を「それってあまりに文学的では」と題名にしている程なので、ご本人は今回の改定案に納得もしている様で、筆者としては一体どっちなんだ?と突っ込みたくなる。

この問題は「国語」、更に言えば「言語」って一体何のためにあるか?という問題から考えなければならず、それを基に「国語教育はどうあるべきか」を考察するべきだ。では、現代社会では国語能力に対するニーズはどこにあるかを考えてみよう。筆者はIT企業が学生を採用する時、多少の技術的知見を有する理系の学生よりも文科系の学生を敢えて採用すると聞いたことがある。何故なら、ITシステムを開発するには先ず要求仕様書を纏めなければならず、その為には顧客の要求を顧客との会話から理解し、それを簡潔に誤解が生じないように図や文章にまとめなければならず、そういう作業は文系の学生の方が得意だからだそうだ。契約書などの法律関係でも、科学技術に関する論文でも、製品の解説書でも、日常の業務に関するメールや会話のやり取りでも、誤解を生じない論理的な表現のニーズは多い。何年か前「今目の前を通過した電車」についてA駅の駅員とB駅の駅員が電話で話した時、自分のいる駅の前を通過した電車のことだと互いに誤解した為に事故が発生したことがあった。事ほど左様に正確な論理的表現は人の生死を左右することがある。これに対して文学的表現能力に対するニーズは広告代理店とか政治家とかにあるが、言語表現全体に対する占有率はかなり低いと言わねばなるまい。

従来の国語教育が文学鑑賞に偏しているという批判は数十年前から聞いているので、マスコミの情緒的扇動的表現に辟易している筆者としては期待を込めてこの改訂を見守ってゆきたいと思う。この改訂の背景は「PISA(経済協力開発機構=OECD=加盟国の共通テスト)で、日本の子供たちの実用文読解の記述問題の正答率が諸外国に比べて著しく低かったという『PISAショック』」にあるとのことで、これは間違った言語能力教育に積弊だろうと思う。

だが、この改革は難儀するだろう。なぜならほとんどの国語教師は文学青年くずれで、7世紀以来の日本文学をどう鑑賞するかは説明できても「論理国語」が何であるかを理解していないからだ。例えば、列車の運行マニュアルとか、スタッフ細胞の研究論文とかそれに類する文書を国語教師たちや読んだことがあるのだろうか? 日本の伝統的な「もののあはれ」や無常観を理解する必要が無いとは言わないが、それを理解するのは国語教育を通してだけでなく、小説や映画やTVドラマを通しても身に付けられるはずだ。

これからは国際化の時代だから日本人は英語をもっと身に付けなければならないという声が喧(かまびす)しい。英語を公用語にした日本企業もあるし、英語で討論する日本の学会もある。だが、筆者は、英語の様な外国語は文型があるために論理的表現が容易になるというメリットがある代わりに微妙な表現ができずにそれを補う為に表現がやたらと長くなるというデ・メリットがあると考える。これに対して日本語は文型が融通無碍であり、表現の幅広く、従って俳句の様な文学が成立したと考える。この特徴により、「外国人にとって日本語は習得しやすい」と言える。日本語を難しくしているのは日本語教師だ。彼らは敬語など外国人が習得しにくい点に特に拘って自分の価値を高めようとしている。

だから、日本人が英語を習得しようとするより外国人に日本語を教えて敬語や日本文化などは大目に見る方が日本にとってプラスになるだろう。英語を公用語にした日本企業には日本語を公用語にしてブロークンな日本語を外人に話させることをお薦めする。関係者にはそこを配慮した高校用、外人用の「論理国語」のテキストを作って頂きたい。


資料;https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/NBD/15/257045/110500189/?ST=pc

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